「傑作」クリスマス・テロル | 斜め後ろ、時々斜め前

「傑作」クリスマス・テロル

タイトル:クリスマス・テロル

作者:佐藤友哉


私がずーっとこのブログでも言いまくっている佐藤友哉さんの作品です。

たった今、再読したところです。

いや、はっきり言ってこれは小説じゃありません

清涼院流水さんが言うような、大説ですらありません


ただただ、これは「傑作」です。


いや、前に読んだときはこんなに感動しなかった。

これで読書感想文書けばよかったと後悔してるくらい、今感動してます。

すげーです。

なんといいますか、、、、

日常生活の不条理?

うーん。

普通の小説って「起承転結」が一応なりともありますよね。

まぁ、舞城王太郎さんとかは例外かもしれませんが、

彼の作品も私の感覚では「結」の部分はしっかり存在します。

ですが、これには全くそれが無いんです。

あるのは「起」とあってせいぜい「承」まで。

どこまで行っても「転」も「結」もありません。

あるのは「」ですね。

決定的に、完全なまでに欠けてます。

はじめ読んだときにはコレがよくわからなかったんです。

それと密室の謎が気になってましたんで、感動はあまり無かったです


今までこれは私の「佐藤友哉作品ランキング」で圧倒的に最下位でした。

現在、第一位です。それどころか、人生至上に残る「傑作」。

生まれて初めて意識して読んだ小説「パスワードはひ・み・つ」、

人格形成に大いに関係しているであろう「創竜伝」「多重人格探偵サイコ」、

天性の才能全開で突っ走る極上小説「夏と花火と私の死体」、

これらに並ぶほどの傑作。


さてさて、で、どこに感動したか。

本当に賛否が分かれるでしょうね、この作品。

前も思いましたが、そのとき以上に思っています。

結局のところ、この作品はものすごいリアリティーがあるんです。

↑この発言自体、賛否がわかれますね。

設定的にはリアリティーはありませんよ。

密室のトリックもかなりトリッキー。

いきなり作者の愚痴みたいなのが挟まったり。

推理小説としても、普通の小説としてもイマイチかもしれません。

でも「傑作」なんですってば。

だから、それはリアリティー

日常生活で、「自分が小説の脇役かもしれない」なんて錯覚に陥ったことありませんか?

私はあるんですよ、中学時代。まぁ、まだほんの数年前ですね。

なんていうか、自分自身の存在の希薄さ?とか、自分が世界に関わっていない不安ですか?

自分なんかいなくても世界は進むんだぁーって変な絶望感ですね。

自分がいない所で話が進む疎外感。

派手なアクションだとか、カッコいい解決。

自分が知らない間に物事が完結していて、もうどうにもならないとこまで行っちゃってる感じ?

それに、実生活には「結」って無いですよね。

それこそ死ぬまで。

「転」を経験する人だって少ないでしょう?

普通は「起」。

行ってせいぜい「承」止まり。

「結」に至っては死んでも無理な気がします。

でも、だから小説を読むんですよね。

究極の無いものねだりです。

「結末」が欲しいんですよ。

どんな不条理でも、どんなに理解不能でも、どんなにハッピーエンドでも、どんなにバッドエンドでも、

とにかく「終わり」を見たいんですよ。

その終わりを模擬的に見せてくれるのが、「小説」なんです(まぁ、ドラマとか漫画もそうでしょうね)

だから、読者は希望を持つんです「話は必ず終わりに向かって進んでいくんだぁ」っていう。

だけど、このクリスマス・テロルにはその「終」が決定的に無いんです。

「欠」なんです。

たぶん、この本否定派はそんな「終わらない」ラストが嫌いなんだと思います。

(純粋に佐藤友哉がしょうに合わない人もいるでしょうが)

リアルな世界が怖いんですよ

ずばぁっとさらりと描かれているのが。


読んでしまったらテンションがすんげー上昇してしまいました。

今日の記事は長いですね。

兎に角コレ「傑作」。

本の裏表紙に書かれている「問題作中の問題作。あるいは傑作。」は本当です。


あぁー、表表紙の内側に書かれている「犯人は読者です(本当)。」の意味もやっとわかりました。

言いませんが。ネタバレっぽいので。

しかし、本当にここで佐藤さんが引退しないでよかったです。

「こどおこ」ではクリテロの雰囲気は全然無いですし、

自分で商業作家になるんだって言ってるみたいですが、

是非是非いつかクリテロを越える傑作を書いていただきたいと思った八月の夜です。